イギリスの歴史①|エリザベス救貧法・スピーナムランド制度から新救貧法へ

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社会福祉の原理と政策
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イギリスの歴史シリーズ

語呂合わせで、年表を覚えようとしていませんか。法律は、いつできたかではなく、どのような背景で、どのような内容だったかを覚えていないと解けません。時代背景と一緒に、流れで覚えていきましょう。

イギリスの歴史は全4回です。

→イギリスの歴史①|エリザベス救貧法・スピーナムランド制度から新救貧法へ(この記事)
→イギリスの歴史②|COS・セツルメント運動から広がる民間の力
→イギリスの歴史③|ブース・ラウントリーの貧困調査からベヴァリッジ報告へ
→イギリスの歴史④|福祉国家の完成からサッチャー・ブレアへ

歴史の勉強の仕方についての記事はこちら
→歴史の勉強の仕方

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今回のテーマは「イギリスの救貧法の流れ」

国家試験で「歴史」といえば、避けて通れないのがイギリスの救貧法の流れです。エリザベス救貧法、労役場テスト法、ギルバート法、スピーナムランド制、新救貧法。今回はこの5つを、時代の空気とセットで整理していきます。

法律は「いつできたか」ではなく「どのような背景で、どのような内容だったか」を覚えていないと解けません。貧困の原因は「怠惰」であり、個人の課題だと捉えられていたことを感じながら読み進めてください。

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エリザベス救貧法(1601年)

16世紀後半、ロンドンには地方から流入した貧困者が増加していました。その対応に行き詰まって制定されたのがエリザベス救貧法です。ただ、救貧法とは名ばかりで、貧困者を積極的に救済する政策ではありませんでした。救貧行政は教区を単位として行われ、教区ごとに救貧税を集めて運営しました。

貧民は3つに分けられました。
①働く能力のある有能貧民は、矯正の家で懲罰的に働かされました。
②働く能力のない無能貧民は、プアハウス(救貧院)に収容されました。
③児童は、徒弟として奉公に出されました。

貧困の原因は怠惰であると位置づけ、貧民には徹底的に強制労働を課しました。辛くて逃げ出しても引き戻され、最終的には絞首刑の対象になったというのも驚きです。イギリスはこの救貧法を通して「働かなかったらこうなるのだ」という恐怖を与え、労働に対する倫理観を定着させようとしていました。

個人の貧困を道徳的な怠惰の結果と捉える見方は、この先かなり長く続きます。ブースとラウントリーの貧困調査で、貧困の原因が社会の側にあると示されるまで、およそ300年かかりました。

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労役場テスト法(1722年)とギルバート法(1782年)

1722年の労役場テスト法は、救済を求める人に労役場(ワークハウス)へ入ることを条件としました。労役場に入ることを拒む人は救済しません。労役場での労働に耐えられるかどうかで、本当に救済が必要な人かどうかを判断する仕組みです。救済を受けにくくして、救貧費用を抑えることが狙いでした。

それから60年後の1782年、ギルバート法が制定されました。提唱したのは、当時の下院議員であるトマス・ギルバートです。それまでの労役場は、高齢者も病人も働ける人も一緒に収容し、懲罰的に働かせる場になっていました。ギルバートは、労役場は高齢者や病人など働けない人のための施設に絞り込み、働ける人には自宅に住んだまま仕事を斡旋すべきだと訴えます。これが法律になったのがギルバート法で、院外救済を認めた点が新しいところです。

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スピーナムランド制(1795年)

1795年、ギルバート法の院外救済の考え方をさらに一歩進める形で、スピーナムランド制が始まります。バークシャー州スピーナムランドの治安判事たちが、パンの価格をもとに算出した最低生活費と実際の収入との差額を、家族の人数に応じて補填する仕組みを作りました。最低賃金制度がなかった時代に、収入が足りない分を公的に補う。これは事実上、はじめての賃金補助制度と位置づけられています。

もっとも、雇い主が賃金を低く抑えても公費が補填してくれることになるため、賃金の引き下げ圧力を生み、救貧税の負担も増えました。この点は第38回問題19で問われています。

新救貧法(1834年)

ところが、この流れは長く続きませんでした。マルサスの人口論やベンサムの功利主義、アダム・スミスに代表される自由放任主義といった当時の有力な思想の影響を受け、「安易な救済は貧民を増やすだけだ」という考え方が広がっていきます。

ベンサムとアダム・スミスについての記事はこちら
→ベンサム・ロールズ・セン|功利主義・格差原理・潜在能力アプローチの違い
→アダムスミスからサッチャー、ハイエクとフリードマン|自由主義と第三の道をわかりやすく解説

1832年、政府は救貧法の実態を調べるための王立委員会を設置します。この委員会の報告書(1834年王立救貧法調査委員会報告書)をまとめたのが、経済学者のナッソー・シーニアと、行政官のエドウィン・チャドウィックです。特に劣等処遇の原則を提案したのはチャドウィックだとされています。

この報告書をもとに、1834年、新救貧法が制定されました。ここで再び、厳しい処遇へと逆戻りします。新救貧法の特徴は次の3つです。
①全国統一の原則です。中央委員会を設け、地方ごとにばらばらだった救貧行政を統一しました。
②劣等処遇の原則です。救済を受ける人の生活水準は、自活している最下層の労働者よりも低くしました。
③院内救済の原則です。ギルバート法やスピーナムランド制で広がった院外救済を制限し、再び労役場への収容を原則としました。

院内救済の原則は、エリザベス救貧法の考え方に逆戻りしていることがわかります。

すっきり整理 イギリス救貧法の流れ

イギリスの救貧法の流れ 年 法律・制度 覚えておきたい語句 1601 エリザベス救貧法 教区単位・矯正の家・プアハウス 1722 労役場テスト法 労役場に入ることが救済の条件 1782 ギルバート法 院外救済を認める 1795 スピーナムランド制 パンの価格と家族数で賃金を補助 1834 新救貧法 全国統一・劣等処遇・院内救済 各法の内容をもとに著者が作成した図です。無断転載・複製はご遠慮ください。

実際に出題された問題

第38回 社会福祉の原理と政策 問題19

次の記述のうち、イギリスのスピーナムランド制度の説明として、最も適切なものを1つ選びなさい。

1 救済を求めて都市部に集中する貧民を分散するために、生まれ故郷の教区へ強制的に送還した。
2 救済を申し込んだ貧民の労働能力の有無をテストするために、労役場を活用した。
3 労働能力のある貧民が雇用されるまでの間は自宅に待機させ、貧民救済委員会による救済を施した。
4 最低賃金制度がない状態で、パンの価格と家族の大きさによる基準と賃金との差額を賃金補助したため、賃金の引き下げ圧力を生むとともに、救貧税負担の増大を招いた。
5 救済を受ける貧民の救済水準は、独立自活している最下層の労働者の生活水準を下回るものとした。

解説

1 × 出生地の教区へ送還するのは、1662年の定住法の内容です。
2 × 労役場で労働能力をテストするのは、1722年の労役場テスト法です。
3 × 働ける人を自宅に置いたまま救済するのは、ギルバート法の院外救済です。
4 ○ スピーナムランド制です。賃金の引き下げ圧力と救貧税の増大を招きました。
5 × これは新救貧法の劣等処遇の原則です。

第33回 現代社会と福祉 問題25

イギリスの新救貧法(1834年)に関する次の記述のうち、最も適切なものを1つ選びなさい。

1 劣等処遇の原則を導入し、救貧の水準を自活している最下層の労働者の生活水準よりも低いものとした。
2 パンの価格に基づき定められる最低生計費よりも収入が低い貧困者を対象に、救貧税を財源としてその差額を給付した。
3 貧困調査を実施して、貧困は社会的な要因で発生することを明らかにした。
4 働ける者を労役場で救済することを禁止し、在宅で救済する方策を採用した。
5 貧困の原因として欠乏・疾病・無知・不潔・無為の5大巨悪を指摘した。

解説

1 ○ 新救貧法の劣等処遇の原則です。
2 × スピーナムランド制の説明です。
3 × ブースとラウントリーの貧困調査の説明です。
4 × 新救貧法は院内救済を原則としました。在宅での救済を進めたのはギルバート法です。
5 × 5つの巨悪を指摘したのは、1942年のベヴァリッジ報告です。

第31回 現代社会と福祉 問題24

イギリスにおける福祉政策の歴史に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。

1 エリザベス救貧法(1601年)により、全国を単一の教区とした救貧行政が実施された。
2 労役場テスト法(1722年)は、労役場以外で貧民救済を行うことを目的とした。
3 ギルバート法(1782年)は、労役場内での救済に限定することを定めた。
4 新救貧法(1834年)は、貧民の救済を拡大することを目的とした。
5 国民保険法(1911年)は、健康保険と失業保険から成るものとして創設された。

解説

1 × 救貧行政は教区ごとに行われました。全国を単一の教区としたわけではありません。
2 × 労役場テスト法は、労役場に入ることを救済の条件としました。
3 × 労役場内での救済に限定したのは新救貧法です。ギルバート法は院外救済を認めました。
4 × 新救貧法は救済を制限することを目的としました。
5 ○ 国民保険法は、健康保険と失業保険から成ります。

貧困と「個人責任」

これらの歴史をみると、貧困を社会の課題として捉えるまでに時間がかかるというのは、どこの国も通ってきた道なのだと思い知らされます。個人責任、怠惰。これらの考え方は、いまだ私たちの国にも根強く残っていることを感じます。貧困状態にある人が社会的排除の対象になりやすいというのも、その一つだといえるでしょう。

社会福祉を学んだことがある人なら、誰でも貧困になりうること、貧困は社会の課題であることを実感していると思います。でもこの感覚も、イギリスの歴史を含めて社会福祉を学ぶ機会が得られた私たちだからこそ持てるものなのかもしれません。

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