歴史は整理して「流れ」で覚えてしまいましょう。
日本の福祉の歴史、第3回は昭和戦前です。世界恐慌をきっかけに恤救規則がようやく見直され、救護法が生まれます。そして戦争が近づくにつれ、福祉は「国民を守るもの」から「国力を支えるもの」へと姿を変えていきます。
→①明治期の記事はこちら
→②大正期の記事はこちら
③昭和戦前(今ここ)
→④戦後〜オイルショックの記事はこちら
→⑤福祉見直し論の記事はこちら
→⑥ゴールドプラン〜基礎構造改革の記事はこちら
世界恐慌と農村の窮乏
1929年(昭和4年)、アメリカに端を発した世界恐慌が日本にも波及しました。都市では失業者があふれ、農村では米や繭の価格が暴落し、欠食児童や身売りが社会問題になるほど困窮が広がりました。半世紀以上も変わらなかった恤救規則では、明らかに対応できていない状態でした。
救護法(1929年制定・1932年施行)
救護法は1929年(昭和4年)に制定されましたが、財政上の理由から施行は先延ばしにされ、実際に施行されたのは1932年(昭和7年)でした。
救護法は、恤救規則と比べていくつかの点で前進しています。
・市町村を実施の主体とする公的扶助義務主義を採用
・対象も65歳以上の老衰者・13歳以下の幼者・妊産婦・障害や傷病により労務を行うことが困難な者へと広げる
ただし、要救護者による保護請求権は認められていない等の問題点はありました。国に救護の義務はあっても、救護を受ける側に「求める権利」はまだなかった、ということです。この保護請求権が認められるのは、戦後の(新)生活保護法を待つことになります。
社会事業法(1938年)
1938年(昭和13年)には社会事業法が制定されました。それまで民間の篤志家に委ねられていた私設の社会事業について、地方長官(知事)による監督権を定め、公費助成の仕組みを整えたものです。これによって、民間の社会事業は行政の監督のもとに置かれることになりました。
同じ1938年には、厚生省も設置されています。社会事業や保健衛生を専門に扱う行政機関の誕生です。
戦時厚生事業への再編
1937年(昭和12年)の日中戦争開始以降、日本は戦時体制へと突き進んでいきます。1938年に制定された国家総動員法に基づき、国家総動員体制がとられ、社会事業もまた「人的資源」を確保するための施策として位置づけ直されました。傷痍軍人や軍人の遺家族への援護、労働力としての国民の健康の維持など、人的資源論に基づく生産力・軍事力の観点から、社会事業は戦時厚生事業へと再編されていきます。
本来貧しい人を救うための仕組みであった「社会事業」が、国のために国民を効率よく使うための仕組みへと性格を変え、「厚生事業」として再編されていった時代です。
すっきり整理:昭和戦前の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1929年(昭和4年) | 世界恐慌/救護法の制定 |
| 1932年(昭和7年) | 救護法の施行 |
| 1937年(昭和12年) | 日中戦争が始まる |
| 1938年(昭和13年) | 社会事業法の制定/厚生省の設置 |
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第34回 問題25
戦前の社会事業に関する次の記述のうち,正しいものを1つ選びなさい。
1 方面委員制度は,社会事業の確立によって済世顧問制度へと発展した。
2 第一次世界大戦末期に発生した米騒動の直後に,社会事業に関する事項を扱う行政機関として厚生省が設立された。
3 救護法は市町村を実施主体とする公的扶助義務主義を採用したが,要救護者による保護請求権は認めなかった。 4 国家総動員体制下において,人的資源論に基づく生産力・軍事力の観点から,戦時厚生事業は社会事業へと再編された。
5 社会事業法の成立により,私設社会事業への地方長官(知事)による監督権が撤廃されるとともに,公費助成も打ち切られた。
正答:3
1 済世顧問制度→方面委員制度
2 1918年米騒動→1938厚生省
4 社会事業から戦時厚生事業へ(日中戦争)
5 監督権が新設され公費助成が整備された
次回は戦後からオイルショックまで、福祉三法体制から福祉元年に至る時代です。
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