どうしても勉強がはかどらない日、過去問を開く気持ちになれない時、疲れている日・・・そんなときはさくっと人名を覚える日にしましょう。10分で読み終わる「頻出人名シリーズ」です。
「都市化が進むと、人と人とのつながり(コミュニティ)はどうなるのか」。この問いに対して、社会学者たちは大きく3つの見方を示してきました。今日は、この3つの見方を作った代表的な3人を紹介します。
マッキーヴァー:そもそも「コミュニティ」とは何か〜
以前の人名シリーズでも紹介した通り、マッキーヴァーは「コミュニティ」を、一定の地域で営まれる共同生活そのもの、と定義しました(対して、特定の目的のために作られた組織を「アソシエーション」と呼びました)。

この「コミュニティ」という言葉があったからこそ、「都市化が進むと、このコミュニティはどうなるのか」という、次に紹介する論争が生まれることになります。
ワース:コミュニティ喪失論、アーバニズム論
ワースは、1938年に「アーバニズム」という概念を提示しました。都市は、大規模な人口・高い人口密度・住民の異質性という3つの特徴を持ち、そこから、人間関係の分節化・希薄化が進み、近隣住民への無関心などの社会心理が生み出される、と論じました。
アーバニズム=都市に特徴的な「生活様式」のことです。ポイントは、都市を「場所」ではなく「そこで生まれる暮らし方・人間関係のスタイル」で捉えたところにあります。
ワースは都市を定義する要素として ①人口の規模(大きい)②密度(高い)③異質性(いろんな人がいる) の3つを挙げました。この3つがそろうと、人々の生活様式が変わっていく、という理屈です。
どう変わるかというと──
村なら、八百屋のおばちゃんは「〇〇さんちの息子さん」として自分の全部を知っています(第一次的接触)。ところが都市では、コンビニの店員さんとは「客と店員」という役割だけの付き合いになる。顔見知りでも名前は知らない。ワースはこれを、接触が表面的・一時的・非人格的(第二次的接触が優位)になると表現しました。
第一次的接触(村的な世界)
みんなが自分の全部を知っている。困ったときは助けてくれるけど、逆に言えば「昨日、駅前で誰と歩いてたの?」まで筒抜け。つながりは全人格的で継続的。だから安心でもあり、煩わしくもある。
第二次的接触(都市的な世界)
誰も自分のことを知らない。何を着ていようが、何時に帰ろうが、誰の目も気にしなくていい(匿名性・自由)。でもその代わり、つながりは役割限定で一時的・希薄。倒れても「〇〇さん!」と駆け寄ってくれる人はいない。
一時的接触→自分のことを誰も知っているので、時々煩わしく感じるが、常につながりがあるイメージ
二次的接触→誰の目も気にならないが、つながりは一時的で希薄なイメージ
その結果、匿名性が高まり、親族や近隣のつながりが弱まって、社会的な連帯は「地縁・血縁」ではなく制度やルール(フォーマルな統制)に頼るようになる──これがアーバニズムの中身です。
このワースの考え方は、「都市化が進めば、人々のつながり(コミュニティ)は失われてしまう」とする「コミュニティ喪失論」の、代表的な立場にあたります。
試験対策上のポイントは2つです。
- 「規模・密度・異質性」の3点セットはワース、と紐づけて覚えましょう
- 対比で出やすいのがフィッシャーの下位文化理論。ワースが「都市はつながりを弱める」と見たのに対し、フィッシャーは「都市は人が多いからこそ、趣味や民族などの下位文化(サブカルチャー)がむしろ育つ」と見た、という違いがよく問われます
↓下位文化理論はこちらからどうぞ

ウェルマン:コミュニティ解放論
これに対しウェルマンは、都市化が進んでも、人々のつながりは決して失われるわけではないと考えました。ただし、単に「近隣関係が存続する」という立場(コミュニティ存続論)とも違います。
ウェルマンが示したのは、交通・通信手段の発達によって、コミュニティは地域という空間の制約から解放され、新しい形で展開しているという「コミュニティ解放論」です。つながりは失われたのではなく、地域を超えて広がった、という考え方です。
最近の若い人は特に「場所にしばられない」コミュニティーをたくさんもっていそうです。近くに住んでいない人たちとのコミュニティが広がるって素敵です!
今日のまとめ
コミュティーもマッキーヴァーも頻出!頭の中で地図やフローチャートを作りながら、「意味が良くわかっていないけどとりあえず暗記」や「語呂合わせ頼る勉強」から一歩脱却しましょう。
社会学で出題される人名はこちらの記事でほぼ網羅しています。
mapをご確認ください。



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