日本の福祉の歴史シリーズ
語呂合わせで、年表を覚えようとしていませんか。法律は、いつできたかではなく、どのような背景で、どのような内容だったかを覚えていないと解けません。時代背景と一緒に、流れで覚えていきましょう。
日本の歴史は全6回です。
→日本の福祉の歴史①|明治期・恤救規則と慈善事業家たち(この記事)
→②大正期
→③昭和戦前
→④戦後からオイルショックまで
→⑤福祉見直し論
→⑥ゴールドプランから基礎構造改革まで
歴史の勉強の仕方についての記事はこちら
→歴史の勉強の仕方
今回のテーマは明治期
今回から、日本の福祉の歴史を時代ごとに確認します。第1回は明治期です。
明治期に国がつくった救貧の仕組みは、1874年(明治7年)の恤救規則だけでした。対象は、家族や地域の助け合いに頼れない極貧の者に限られていました。それ以外の人々への救済は十分に整っておらず、その部分を民間の篤志家が慈善事業で補いました。民間の慈善事業を連絡・調整する組織として、現在の全国社会福祉協議会のルーツにあたる中央慈善協会ができたのも、この時代の特徴です。
恤救規則(1874年・明治7年)
日本で最初の全国的な救貧の法規が、恤救規則(じゅっきゅうきそく)です。1874年(明治7年)に制定されました。
この規則は「済貧恤救ハ人民相互ノ情誼ニ因テ」という言葉から始まります。貧しい人を救うのは家族や親族、近隣の助け合いでやりなさい、というのが基本の考え方です。国が救うのは、頼る人が誰もいない「無告の窮民」に限られていました。
明治維新で藩による救済の仕組みがなくなった一方、政府は近代国家の建設を優先し、救貧に充てる財源を割けませんでした。そのため恤救規則は、救済を家族や近隣の助け合いに委ね、国が救うのは頼る者のない極貧の者だけと定めました。
対象はきわめて限られていました。いずれも極貧の独身者が前提です。
①障害があって働けない者
②70歳以上で重病または老衰の者
③病気で働けない者
④13歳以下の者
独身、つまり身寄りのない者に限られ、家族がいる者は家族が面倒を見ることとされていました。給付は米代としての金銭で、救われる者はごくわずかでした。
国家試験では、次のように出題されました。
×「恤救規則(1874年(明治7年))は、政府の救済義務を優先した。」(第30回問題24)→優先したのは人民相互の情誼です。
×「恤救規則では、15歳以下の幼者について、人民相互の情宜に頼らず、国家が対応すると規定した。」(第28回問題136)→対象は13歳以下の幼者で、国が対応するのは身寄りのない者に限られます。
×「1874年(明治7年)に制定された恤救規則は、救護の種類に生活扶助を明記した我が国では初めての貧困対策であった。」(第38回問題97)→恤救規則は救護の種類を定めず、米代の金銭を給付するものでした。
救護法が制定されるまで、半世紀以上にわたって、国としての救貧政策は恤救規則のみでした。その結果、民間の篤志家による様々な活動につながりました。
慈善事業家たち
明治期は、慈善事業家たちの時代です。人物ごとに業績を確認します。
国が救うのは恤救規則の対象者だけだったため、凶作や地震で親を失った子ども、非行のある少年、貧しい家庭の子どもを引き受ける仕組みが国にはありませんでした。そこで、慈善事業家たちが寄付や私財で施設をつくり、受け皿の役割を果たしました。
石井十次 岡山孤児院
石井十次は、1887年(明治20年)に岡山孤児院を設立しました。孤児救済の先駆者で、児童福祉の父と呼ばれます。濃尾地震や東北の凶作で親を失った子どもたちを受け入れ、一時は千人を超える孤児を養育しました。
石井亮一 滝乃川学園
石井亮一は、滝乃川学園を設立しました。日本で最初の知的障害児のための施設です。もともとは濃尾地震の孤児を保護する孤女学院として始まり、その中に知的障害のある子がいたことから、知的障害児の教育へと進みました。
留岡幸助 家庭学校
留岡幸助は、1899年(明治32年)に東京の巣鴨に家庭学校を設立しました。非行少年のための感化事業です。留岡は監獄の教誨師(きょうかいし)をしていた人物で、罪を犯した人の多くが少年期に不遇な環境にあったことに気づき、懲らしめるのではなく家庭的な環境で教育すべきだと考えました。
山室軍平 救世軍
山室軍平は、救世軍日本支部の中心人物です。救世軍はイギリスで生まれたキリスト教の団体で、廃娼運動(公娼制度をなくす運動)や生活困窮者の支援を進めました。
野口幽香 二葉幼稚園
野口幽香は、森島峰とともに1900年(明治33年)に二葉幼稚園を設立しました。貧しい家庭の子どもたちのための幼児教育で、保育事業の先駆けとなりました。
国家試験では、次のように出題されました。
○「石井十次は岡山孤児院を設立した。」(第35回問題25)
×「山室軍平は家庭学校を設立した。」→家庭学校を設立したのは留岡幸助です。
×「留岡幸助は救世軍日本支部を設立した。」→救世軍日本支部の中心となったのは山室軍平です。
×「野口幽香は滝乃川(たきのがわ)学園を設立した。」→滝乃川学園を設立したのは石井亮一です。
×「石井亮一(りょういち)は二葉幼稚園を設立した。」→二葉幼稚園を設立したのは野口幽香と森島峰です。
セツルメントも、アダムスの岡山博愛会、片山潜のキングスレー館というかたちで明治期から活発に活動しています。セツルメントについての記事はこちら
→セツルメントは誰が作った?|イギリス・アメリカ・日本の流れで5人を整理
感化法(1900年・明治33年)
留岡幸助らの感化事業を背景に、1900年(明治33年)に感化法が制定されました。非行少年を懲罰ではなく感化院で教育する仕組みで、道府県に感化院の設置を求めました。
それまで非行少年は、成人の犯罪者と同じ監獄などで扱われることがありました。留岡幸助らが家庭的な環境での教育を実践で示し、その成果を受けて国が感化法を制定しました。
中央慈善協会(1908年・明治41年)
日露戦争後、国は財政難のなか、民間の慈善事業の力を生かす方針をとりました。その一環として、1908年(明治41年)に、各地の慈善事業を連絡・調整する組織として中央慈善協会が設立されました。初代会長は渋沢栄一で、現在の全国社会福祉協議会のルーツにあたります。
国家試験では、次のように出題されました。
大正期の社会事業を問う問題(第37回問題20)で、明治期のできごとが次のように選択肢に並びました。
×「感化法が制定された。」→1900年(明治33年)です。
×「中央慈善協会が設立された。」→1908年(明治41年)です。
×「恤救規則が制定された。」→1874年(明治7年)です。
×「石井十次によって岡山孤児院が設立された。」→1887年(明治20年)です。
すっきり整理 明治期の年表
次回は大正期です
次回は大正期、米騒動と方面委員制度の時代です。
→日本の福祉の歴史②大正期
ほかの分野の歴史の記事はこちら
→歴史の記事マップ
過去問を解いてみましょう
第38回 貧困に対する支援 問題97
我が国の貧困問題に対する制度に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。
1 1874年(明治7年)に制定された恤救規則は、救護の種類に生活扶助を明記した我が国では初めての貧困対策であった。
2 1929年(昭和4年)に成立した救護法において、世界恐慌の影響から失業者が救済対象と明記された。
3 1945年(昭和20年)に閣議決定された生活困窮者緊急生活援護要綱において、失業者は生活援護の対象から外された。
4 1946年(昭和21年)に制定された旧生活保護法において、素行不良な者は保護をなさないとする欠格条項は撤廃された。
5 1950年(昭和25年)に制定された生活保護法において、申請保護の原則が明記された。
解説
1→× 恤救規則は救護の種類を定めず、米代の金銭を給付するものでした。
2→× 救護法は、働く能力のある失業者を対象としていませんでした。
3→× 生活困窮者緊急生活援護要綱は、失業者も対象に含めていました。
4→× 旧生活保護法は、素行不良な者等を保護の対象から除く欠格条項を設けていました。撤廃されたのは、1950年(昭和25年)の生活保護法です。
5→○ 申請保護の原則は、1950年(昭和25年)の生活保護法で明記されました。
第37回 社会福祉の原理と政策 問題20
大正期の社会事業に関する次の記述のうち、最も適切なものを1つ選びなさい。
1 感化法が制定された。
2 中央慈善協会が設立された。
3 恤救規則が制定された。
4 大阪府で方面委員制度が創設された。
5 石井十次によって岡山孤児院が設立された。
解説
1→× 感化法は、1900年(明治33年)に制定されました。
2→× 中央慈善協会は、1908年(明治41年)に設立されました。
3→× 恤救規則は、1874年(明治7年)に制定されました。
4→○ 大阪府で方面委員制度が創設されたのは、1918年(大正7年)です。
5→× 石井十次が岡山孤児院を設立したのは、1887年(明治20年)です。
第35回 現代社会と福祉 問題25
近代日本において活躍した福祉の先駆者に関する次の記述のうち、最も適切なものを1つ選びなさい。
1 石井十次は岡山孤児院を設立した。
2 山室軍平は家庭学校を設立した。
3 留岡幸助は救世軍日本支部を設立した。
4 野口幽香は滝乃川(たきのがわ)学園を設立した。
5 石井亮一(りょういち)は二葉幼稚園を設立した。
解説
1→○ 石井十次が岡山孤児院を設立しました。
2→× 家庭学校を設立したのは留岡幸助です。
3→× 救世軍日本支部の中心となったのは山室軍平です。
4→× 滝乃川学園を設立したのは石井亮一です。
5→× 二葉幼稚園を設立したのは野口幽香と森島峰です。
第30回 現代社会と福祉 問題24
次のうち、日本の社会福祉制度に関する歴史の記述として、正しいものを1つ選びなさい。
1 恤救規則(1874年(明治7年))は、政府の救済義務を優先した。
2 行旅病人及行旅死亡人取扱法(1899年(明治32年))は、救護法の制定によって廃止された。
3 感化法の制定(1900年(明治33年))を機に、内務省に社会局が新設された。
4 救護法(1929年(昭和4年))における救護施設には、孤児院、養老院が含まれる。
5 児童虐待防止法(1933年(昭和8年))は、母子保護法の制定を受けて制定された。
解説
1→× 恤救規則が優先したのは人民相互の情誼、つまり家族や近隣の助け合いです。
2→× 行旅病人及行旅死亡人取扱法は現在も残っています。救護法によって廃止されていません。
3→× 内務省に社会局が置かれたのは1920年(大正9年)です。感化法の制定が契機ではありません。
4→○ 救護法の救護施設には、養老院、孤児院、病院などが含まれます。
5→× 児童虐待防止法が1933年、母子保護法が1937年です。順序が逆です。
第28回 児童や家庭に対する支援と児童・家庭福祉制度 問題136
日本の児童福祉の歴史に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。
1 恤救規則では、15歳以下の幼者について、人民相互の情宜に頼らず、国家が対応すると規定した。
2 石井十次は、イギリスのベヴァリッジ(Beveridge, W.)の活動に影響を受けて岡山孤児院を設立した。
3 工場法では、18歳未満の者の労働時間を制限することを規定した。
4 児童虐待防止に関する最初の法律は、第二次世界大戦前につくられた。
5 児童憲章は、児童の権利に関するジュネーブ宣言を受けて制定された。
解説
1→× 恤救規則が対象としたのは13歳以下の幼者です。救済は人民相互の情誼に頼るのが基本で、国が対応するのは身寄りのない人に限られていました。
2→× ベヴァリッジ報告は1942年です。岡山孤児院の設立は1887年で、時代が合いません。
3→× 工場法が制限したのは、15歳未満の者と女子の労働時間です。
4→○ 児童虐待防止法は1933年(昭和8年)の制定で、第二次世界大戦前です。
5→× 児童憲章は1951年(昭和26年)に制定されました。ジュネーブ宣言(1924年)を受けて制定されたものではありません。


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