イギリス 救貧法の時代
1 エリザベス救貧法(1601年)は、国が全国一律に貧民を救済する仕組みであった。
× 救済は教区を単位として行われました。教区ごとに貧民監督官が置かれ、救貧税を財源とし、治安判事が監督しました。
2 エリザベス救貧法は、貧民を一律に扱い、労働能力の有無による区別はしなかった。
× 労働能力のある貧民、労働能力のない貧民、児童に分けて扱いました。
3 チャルマーズ(Chalmers, T.)の隣友運動(1819年)では、貧困家庭への訪問活動が行われた。
○ 第27回問題33で出題されています。
4 ギルバート法(1782年)は、労役場への収容を徹底し、院外救済を禁止した。
× ギルバート法は、労役場に収容せずに自宅で救済する院外救済を認めました。
5 スピーナムランド制度(1795年)は、パンの価格と家族の人数を基準にして、賃金を補う手当を支給した。
○ 働いていても賃金が低い人に手当を出す仕組みで、賃金の引き下げを招いたという批判がありました。
6 マルサス(Malthus, T.)は『人口論』で、救貧法は貧困を減らす効果があると主張した。
× 救貧法が貧民の人口の増加を招き、かえって貧困を広げるとして批判し、救貧法の廃止を主張しました。新救貧法(1834年)の背景になった考え方です。
7 新救貧法(1834年)は、救済の基準を教区ごとに決めることとした。
× 全国均一処遇の原則を採り、全国で同じ基準によって救済することとしました。
8 新救貧法の劣等処遇の原則とは、救済を受ける者の生活水準を、最下層の労働者の生活水準より低く抑えるという考え方である。
○ 救済を受けることを選ばせないようにする考え方です。
9 新救貧法では、労働能力のある貧民に対する院外救済が広く認められた。
× 労働能力のある貧民への院外救済は原則として禁止され、労役場(ワークハウス)に収容されました。
エリザベス救貧法から新救貧法までの流れについての記事はこちら
→イギリスの歴史①|エリザベス救貧法・スピーナムランド制度から新救貧法へ
イギリス 民間の慈善活動と貧困調査
10 ロンドンに設立された慈善組織協会(1869年)は、慈善活動を組織化するとともに友愛訪問を行った。
○ この活動が、のちのソーシャルワークの形成につながりました。第27回問題33で出題されています。
11 慈善組織協会は、救済に値する貧民と値しない貧民を区別せず、すべての貧民を援助の対象とした。
× 救済に値する貧民と値しない貧民を区別し、値する貧民を援助の対象としました。
12 平行棒理論とは、救済に値する貧民は救貧行政が扱い、救済に値しない貧民は民間の慈善事業が扱うという考え方である。
× 逆です。救済に値する貧民を民間の慈善事業が、値しない貧民を公的な救貧行政が扱い、両者が交わらずに並ぶという考え方です。第36回問題22で出題されています。
13 繰り出し梯子理論とは、ナショナル・ミニマムが保障された社会では、民間の慈善事業は不要になるという考え方である。
× 国が保障するナショナル・ミニマムの上に、民間の慈善事業がさらに高い水準の活動を積み重ねるという考え方です。第36回問題22で出題されています。
14 トインビー・ホール(1884年)は、ロンドンの富裕な地域に設立された。
× ロンドン東部の貧困地域に設立されました。バーネット(Barnett, S.)夫妻が中心となった、世界で最初のセツルメントです。第27回問題33で出題されています。
15 ブース(Booth, C.)は、ロンドンの調査によって、貧困の主な原因が飲酒などの個人の生活習慣にあることを明らかにした。
× 不規則な労働や低賃金など、雇用のあり方に主な原因があることを明らかにしました。
16 ラウントリー(Rowntree, B.)は、ヨークの調査で貧困を第一次貧困と第二次貧困に分け、人の一生のうちに貧困に陥りやすい時期があることを示した。
○ 子どもが多い時期と高齢期に貧困に陥りやすいことを示しました。
17 衛生と安全、労働時間、賃金、教育で構成されるナショナル・ミニマムの考え方を示したのは、ベヴァリッジ報告である。
× ウェッブ(Webb, S.&B.)夫妻が示した考え方です。第32回問題25で出題されています。
18 1909年の救貧法に関する王立委員会では、多数派報告と少数派報告が出され、少数派報告は救貧法の存続を主張した。
× 少数派報告は、救貧法を解体して、原因別の専門機関が対応する仕組みにすることを主張しました。ウェッブ夫妻がかかわっています。
慈善組織協会とセツルメント運動についての記事はこちら
→イギリスの歴史②|COS・セツルメント運動から広がる民間の力
セツルメントにかかわった人物についての記事はこちら
→セツルメントは誰が作った?|イギリス・アメリカ・日本の流れで5人を整理
イギリス 福祉国家の成立
19 1911年の国民保険法は、健康保険だけを内容としていた。
× 健康保険と失業保険の2つを内容としていました。世界で最初に失業保険を定めた法律です。
20 ベヴァリッジ報告(1942年)は、社会保障計画を社会保険、国民扶助、任意保険の3つで構成するとした。
○ 中心となるのは社会保険で、国民扶助はそれを補うものと位置づけられました。第32回問題25で出題されています。
21 ベヴァリッジ報告が掲げた5つの巨人(巨悪)は、窮乏、疾病、無知、不潔、失業である。
× 5つ目は怠惰です。窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰の5つです。
22 ベヴァリッジ報告の社会保険は、所得に応じて保険料と給付の額を変えることを原則とした。
× 均一拠出・均一給付を原則としました。
23 ベヴァリッジ報告は、福祉サービスの供給主体を多元化し、民間非営利団体を積極的に活用するよう勧告した。
× 供給主体の多元化を示したのは、1978年のウォルフェンデン報告です。第32回問題25で出題されています。
24 イギリスの救貧法は、ベヴァリッジ報告(1942年)によって廃止された。
× 廃止されたのは、1948年に国民扶助法が施行されたときです。エリザベス救貧法から続いた仕組みが、ここで終わりました。
25 国民保健サービス(NHS)は、社会保険料を主な財源として運営されている。
× 主な財源は税です。原則として自己負担なく医療を受けられます。
26 市民の権利が18世紀の公民権、19世紀の参政権、20世紀の社会権という順で確立してきたとする市民権理論を示したのは、ティトマス(Titmuss, R.)である。
× マーシャル(Marshall, T.)です。収入や財産の差は残っても、社会権が全員に保障されることで同じ市民として扱われる、と考えました。ベヴァリッジ報告や国民扶助法、国民保健サービスが、その社会権の中身にあたります。第34回問題24で出題されています。
ブースとラウントリーの貧困調査からベヴァリッジ報告までの流れについての記事はこちら
→イギリスの歴史③|ブース・ラウントリーの貧困調査からナショナル・ミニマム、ベヴァリッジ報告へ
イギリス 1960年代以降の報告書・改革と学説
27 シーボーム報告(1968年)は、地方自治体がソーシャルワークに関連した部門を統合すべきであると勧告した。
○ この勧告を受けて、1970年の地方自治体社会サービス法により社会サービス部が設置されました。第29回問題33で出題されています。
28 ウォルフェンデン報告(1978年)は、公的部門、民間営利部門、民間非営利部門、インフォーマル部門が福祉を担うという福祉多元主義を示した。
○
29 1990年の国民保健サービス及びコミュニティケア法では、サービスの提供をすべて地方自治体が直接行うこととされた。
× 地方自治体はサービスを購入して組み合わせる側に回り、提供は民間営利、民間非営利などが担う形になりました。
30 イギリス政府の病院計画(1962年)では、入所施設の利用者を減らし、コミュニティケアを進める方針が示された。
○ 第27回問題33で出題されています。
31 サッチャー政権は、公的サービスの直接提供を増やし、福祉国家を拡大した。
× 福祉国家の見直しを進め、民営化や民間活力の活用を推進しました。
32 ブレア政権が掲げた「第三の道」は、従来の社会民主主義とも新自由主義とも異なる路線である。
○ 第32回問題25では、これをベヴァリッジ報告が勧告したとする記述が誤りの選択肢として出題されています。
33 ブレア政権の「第三の道」を理論的に支えたのは、ギデンズ(Giddens, A.)である。
○ 福祉を給付だけで支えるのではなく、教育や就労の支援によって人の力を高めるという考え方を示しました。
34 経済成長、高齢化、官僚制が各国の福祉国家化を促進するという収斂理論を示したのは、ローズ(Rose, R.)である。
× ウィレンスキー(Wilensky, H.)です。第34回問題24で出題されています。
35 エスピン-アンデルセン(Esping-Andersen, G.)は、福祉レジームを自由主義、保守主義、家族主義の3つに分類した。
× 自由主義、保守主義、社会民主主義の3つです。第34回問題24で出題されています。
36 タウンゼント(Townsend, P.)は、相対的剥奪という考え方から貧困をとらえた。
○ その社会で当たり前とされる生活の様式や活動から締め出されている状態を貧困とする考え方です。1960年代のイギリスでは、豊かになった後も貧困が残っていることが指摘され、貧困の再発見と呼ばれました。
37 福祉の給付を社会福祉、企業福祉、財政福祉に区別する福祉の社会的分業論を示したのは、ウィレンスキー(Wilensky, H.)である。
× ティトマス(Titmuss, R.)です。第34回問題24で出題されています。
福祉国家の完成からサッチャー、ブレアまでの流れについての記事はこちら
自由主義の考え方の流れについての記事はこちら
→アダムスミスからサッチャー、ハイエクとフリードマン|自由主義と第三の道をわかりやすく解説
ベンサム、ロールズ、センの考え方についての記事はこちら
→ベンサム・ロールズ・セン|功利主義・格差原理・潜在能力アプローチの違い
アメリカ
38 ハル・ハウスは、アダムズ(Addams, J.)がシカゴに設立したセツルメントである。
○ 1889年に設立されました。日本で岡山博愛会を設立したアダムス(Adams, A.)とは別の人物です。
39 1935年の社会保障法は、ローズヴェルト(Roosevelt, F.)大統領のニューディール政策のもとで制定された。
○ 世界で最初に「社会保障(social security)」という言葉を用いた法律です。第36回問題23で出題されています。
40 1935年の社会保障法には、高齢者を対象とする公的医療保険が含まれていた。
× 老齢年金、失業保険、公的扶助が中心で、公的医療保険は含まれていません。
41 メディケアとメディケイドは、ニューディール政策のもとで導入された。
× 1965年に、ジョンソン(Johnson, L.)大統領のもとで創設されました。第36回問題23で出題されています。
42 ジョンソン大統領は、「偉大な社会」を掲げ、貧困との戦いを宣言した。
○ 1964年の経済機会法など、貧困対策の立法が進められました。
43 メディケアは、低所得者を対象とする医療扶助である。
× 65歳以上の高齢者と、一定の障害のある人などを対象とする公的医療保険です。低所得者を対象とするのはメディケイドです。
44 メディケイドは、連邦政府が単独で運営する制度である。
× 連邦政府と州政府が費用を負担し、州が運営します。そのため、対象となる人の範囲は州によって異なります。
45 公民権法(1964年)は、ジョンソン大統領のもとで制定された。
○ 第36回問題23では、公民権法の制定がニューディール政策での取組かどうかが問われています。
46 ADA(障害を持つアメリカ人法)は、ニューディール政策のもとで制定された。
× 1990年に制定されました。第36回問題23で出題されています。
47 AFDC(要扶養児童家庭扶助)は、1996年の法改正によってTANF(貧困家族一時扶助)に改められた。
○ クリントン(Clinton, B.)大統領のもとで、個人責任・就労機会調整法が成立しました。
48 TANF(貧困家族一時扶助)には、就労の義務や受給期間の制限がない。
× 就労が義務づけられ、連邦の資金による給付は生涯で通算5年までとされています。
49 アメリカには、国民全員を対象とする公的医療保険制度がある。
× ありません。公的な制度はメディケアとメディケイドなどに限られ、多くの人は民間の医療保険に加入しています。
50 オバマ(Obama, B.)大統領のもとで、2010年に医療保険の加入を広げる法律(ACA)が制定された。
○ 患者保護及び医療費負担適正化法といい、オバマケアと呼ばれます。
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